朝鮮戦争の勃発で、ジョンソン基地(現自衛隊入間基地)内にハウスが不足したことから、1954年(昭和29)には基地周辺に「米軍ハウス」が建てられるようになり、それまであった「日本家屋」と共存する独特な一帯が形成され、「磯野住宅」と呼ばれていました。
お話をうかがった近澤さん、佐藤さん、浅見さん
──ジョンソンタウンの古い「日本家屋」は、旧陸軍の将校・下士官らが暮らした「磯野住宅」のなごりです。第二次世界大戦の後から一般に賃貸され、近澤さん、佐藤さんのご両親もその頃に入居されました。浅見さんも、「磯野住宅」のご出身です。
(近澤さん、佐藤さん)私達はここの長屋で生まれてから、15年ほど前に取り壊されるまで、ずうっと住んでいました。
──みなさんの子供時代、長屋と隣り合った「米軍ハウス」にはまだ、米軍の家族が暮らしていました。覚えていますか?
(浅見さん)米軍さんの子とはよく話しましたよ。ハウスは垣根で遮られていたけれど細い路地で互いにつながっていて、みんな同じ空き地で遊びました。
(佐藤さん)一緒に遊ぶと、車で基地に連れて行ってくれたこともあったわね。
(近澤さん)基地では、かぼちゃ祭りが一番面白かった。今でいうハロウィンに、色んな変装をして行ったよね。
(佐藤さん)そのうち、ハウスの留守番や手伝いを頼まれることもありました。
──では、割と和気あいあいという感じ?
(近澤さん)いや、こちらは生きることに必死でしたよ。
(浅見さん)手伝うのも、物をもらえたり生活の足しになるからで。用がないなら行かないようにという雰囲気でした。
(佐藤さん)でも、いい人達だった。だからみんな玄関は開けっ放しでしたね。
──「米軍ハウス」の中はどうでしたか?
(浅見さん)長屋とは家のつくりも調度品も全く違っていて、食べ物ひとつとっても何となくカラフルで贅沢に見えました。大きな冷蔵庫や、洋式トイレやユニットバスもあった。真鍮のシャワーが格好良かったな。
(近澤さん)ハウスの広さにも憧れたね。空き家が出ると掃除しに行っては「いいね~」って。一方うちは家族4人、四畳半で食事をして、六畳間で一緒に寝ていました。掘りごたつは炭で温めて、お風呂は薪で沸かす、そういう時代でした。
──今のジョンソンタウンの印象は?
(浅見さん)長屋の跡地に「平成ハウス」が建ち、ずいぶん様変わりしました。
(近澤さん)でも、若い人の街になったな、とは思っていませんよ。私達にはいつまでも、思い出の故郷ですからね。
(ライター 細井 安弥)