HISTORY
ジョンソンタウン前史 <2>
太平洋戦争突入から最後の空襲まで

1944 年(昭和19)陸軍航空士官学校周辺。囲った部分に磯野住宅「日本家屋」の住宅群が確認できます。(国土地理院より)

 1941年(昭和16)12月8日、日本は米英に対して宣戦を布告し、太平洋戦争に突入しました。陸軍航空士官学校が置かれていた入間では1942年3月に豊岡陸軍病院が竣工し、8月には豊岡憲兵分隊が設置されました。1944年(昭和19)になると、豊岡国民学校の女生徒が航空士官学校の工場に動員されました。他校の生徒にも飛行場の草取りや授農、松根油採取の作業があったといいます。
11月ごろから空襲が本格化し、翌年の8月15日まで連日のように警報が発令されました。

 


1945年(昭和20)の東京大空襲では、翌日から入間市域で被災者の受け入れが始まり、食糧などが提供されたこともあり、市域に移住した被災者もいました。4月19日、B29により銃撃された航空士官学校の練習機が藤沢村(現・入間市藤沢)に墜落、5月2日には狭山市笹井を中心に焼夷弾の集中投下により死傷者がでて、この地域で最大の空襲となりました。

 

 

 8月14日、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に伝えました。
しかし翌15日未明、0時23分から1時39分にかけて、アメリカ軍により熊谷大空襲が行なわれました。埼玉県で最大規模の被害をもたらしたこの空襲が、太平洋戦争で最後の空襲です。正午、玉音放送で日本の降伏が国民に伝えられました。(続く)

 


 

 


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