「磯野農園」の始まり、陸軍航空士官学校の開校、そして太平洋戦争へ。
現在ジョンソンタウンがある場所は、第二次世界大戦前、「磯野農園」の一部に「日本家屋」が建ち並ぶ住宅群でした。「磯野農園」は1936年(昭和11)8月31日、石川組製糸の農場30町歩を磯野義雄が競落した土地で始められました。少し遡ってみましょう。
石川組製糸は1893年(明治26)に石川幾太郎が創業し、キリスト教精神の基に経営をして全国でも有数の製糸会社へと発展させました。最盛期、現在の入間市に3つ、狭山市に2つの工場のほか、川越、福島、愛知、三重などにも工場を構え、出荷高は昭和初期には全国6位を記録。そして桑畑や、女工などの食料確保のための農園も所有していました。また石川は、西武鉄道の前身である武蔵野鉄道の1912年(明治45)設立の発起人の一人でもあり1921~1930年(大正10~昭和5)の間、社長の役にありました。明治後期から大正にかけて大きく発展した石川組製糸ですが、関東大震災により輸出用に横浜の倉庫に保管していた生糸が焼失し、1927年(昭和2)に始まる金融恐慌、続く世界恐慌、昭和恐慌のあおりを受け、さらに化学繊維の台頭により経営は傾きます。その渦中、1934年(昭和9)に石川はこの世を去ります。
時代は満州事変、五・一五事件、二・二六事件と進み、日中戦争の開始の前年、1936年(昭和11)に石川組製糸の農場は「磯野農園」となり、石川組製糸は1937年(昭和12)、ついに解散しました。
翌1938年(昭和13)に陸軍飛行場航空士官学校分校が所沢から豊岡に移転開校し、12月10日、陸軍航空士官学校として独立します。こうした時代背景の中、航空士官学校の将校とその家族が住むための住宅をという要請により、1938年(昭和13)から「日本家屋」が「磯野農園」に建て始められました。
1940年(昭和15)に豊岡飛行場が完成。1941年(昭和16)3月28日の昭和天皇陸軍航空士官学校行幸の折、士官学校は「修武台」と命名されました。そして12月8日、日本は米英に対して宣戦を布告し、太平洋戦争へと突き進んで行くのです。(続く)