ジョンソンタウン前史 <6>
建設が進む占領軍家族住宅
1950年(昭和25)年頭1月1日、マッカーサーは、「日本国憲法は自衛権を否定せず」と声明を出しました。
1月27日、GHQは「占領軍のための家族住宅増設準備に関する件」で、2千戸の追加要求の指令を日本政府に出しました。ジョンソン基地では、2月8日に米軍家族住宅建設のための用地として、豊岡町、入間川町の農地、山林、宅地など約28万5千㎡が接収されました。そして、4月1日には連合国軍人等住宅公社法が成立しています。
3月1日、4月28日には、それぞれ自由党、国民民主党が結成され、1946年(昭和21)11月3日の日本国憲法公布以降、各法の公布改正がこの年も進められました。
1950年10月の段階で、連合軍軍人等住宅公社は、大宮、横田、西立川、入間川、座間、横浜、横須賀等、全国43箇所の接収軍用地内に、住宅総数2003戸を完成させています。ジョンソン基地では、ハイドパーク(将校用住宅地)の125戸を含む339戸の住宅と、カマボコ型ハウスや、その他57戸、合計396戸の住宅と、小学校2校も建設されました。
「ジョンソン基地労務管理史」によると、1950年当時の賃貸料は、将官150ドル、大・中佐120ドル、少佐105ドル、大尉90 ドル、中尉82· 5ドル、少尉75ドル、上級従尉82· 5ドル、下級従尉75ドル、下士官65· 5ドルでした。当時の100ドルは3万6千円ほどで、現在の価値に換算すると30万円に近い金額になります。(続く)