ジョンソンタウン前史 <8>
サンフランシスコ講和会議
朝鮮戦争の最中の1951年(昭和26)9月4日から8日まで、サンフランシスコで講和会議が開かれました。招請を受けた国のうち、インド、ビルマ、ユーゴスラビアが欠席。調印にあたってはソ連、ポーランド、チェコスロバキアが退席するなか、日本と48か国によって調印されました。中華人民共和国、中華民国(台湾)は招請されず、南北朝鮮は戦争下で会議に参加できませんでした。
講和会議は講和を話し合う会議というよりは、日本を西側に組み入れるための儀式的性格という見方もあって、今日に及ぶ解決されていない問題が残されました。ひとつは日本の隣国である朝鮮、中国、ソ連と国交が結ばれなかったこと。また領土問題が残されたこと。そして賠償はビルマ、インドネシア、フィリピン、南ベトナムの4か国に終わり、アジア諸国からの不満が噴出することになりました。現在でも沖縄で大揺れの米軍駐留、基地の問題があります。安保条約は基地貸与協定というより軍事同盟的な条約と受け止められます。
ジョンソン基地では、滑走路を拡張するために、豊岡町、入間川町、入間村の農地19万6千㎡を買収し、工事の後1953年(昭和28)6月30日から使用を開始しました。同じ年に完成した、在日合衆国軍三鷹宿舎の写真をご紹介します。(続く)
■在日合衆国軍三鷹宿舎
現在の武蔵野市役所、中央公園や学校がある辺りには1953年(昭和28)11月に完成した米軍の宿舎を含む建物・施設群があった。爆撃を受けた中島飛行機武蔵製作所を改修増築したもので、立川基地の将校家族を中心に約650世帯2,300人が生活をし、1972年(昭和47)11月に米軍が退去するまで使われていた。(資料提供:岡野 亘)