HISTORY
ジョンソンタウン前史 <11>
東京オリンピック そして 大阪万博
ジョンソン基地では返還に向かい人員整理が進む。基地将校クラブでマネージャーだった荒井一雄氏(通称ニック)は退職後、仲間とともに狭山市入間川で今も人気のレストランNick's を創業した。写真は60年代の店内でアメリカ人客と荒井氏(写真提供:株式会社ニックス)

ジョンソン基地では返還に向かい人員整理が進む。基地将校クラブでマネージャーだった荒井一雄氏(通称ニック)は退職後、仲間とともに狭山市入間川で今も人気のレストランNick’s を創業した。写真は60年代の店内でアメリカ人客と荒井氏(写真提供:株式会社ニックス)

 1963年(昭和38)11月23日、初めてのテレビ宇宙中継が日米間で行なわれました。翌1964年の6月19 には日米海底ケーブルが開通し、9月6日に名神高速道路の一宮から関ヶ原、尼崎から西宮までが開通、10月から東海道新幹線が開業運行を始め、通信・交通網が拡充していきました。そうして、10月10日から24日の15日間、第18回オリンピック競技大会・東京オリンピックが開催されました。

 

 ジョンソン基地では1963年11月に飛行場地区の管理運用が米軍から航空自衛隊に移り、21日に飛行場の名称を「入間飛行場」と広告され、翌1964年6月、米軍41航空師団(戦闘部隊)が横田基地に移されました。そうした中、入間基地では、東京オリンピック開会式で、競技場上空に五輪マークを描く訓練基地として使用されていました。

 

 1960年代の作成とみられるリーフレット「Welcome Johnson Air Base」には基地の中に公設住宅522戸、個人所有住宅46戸と3ダースのトレーラーハウスが、基地外に西洋風日本住宅とアメリカンスタイルの家屋が1000戸あったと記されています。一方、谷 豊さん(本冊子3号に掲載)が1965年(昭和40)頃に作成された基地外の住宅地図には、所沢を含めて596戸が記録されています。1965年に米軍のベトナム北爆が開始されると、ジョンソン基地第7野戦病院にベトナム戦争負傷兵を収容しましたが、1968年(昭和43)に「キャンプ王子」へ移動しました。

 

 1969年(昭和44)7月20日、人類は月面に降り立ち、翌1970年に「人類の進歩と調和」をテーマに掲げた大阪万国博覧会で「月の石」も展示されました。

(続く)

 



 


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